
キャット量子ビット(Cat Qubit)とは?AWS Ocelotが挑む「ビット反転しない」量子ビット
2026-09-15 ・ 入門
表面符号や量子LDPC符号は、どちらも「大量の物理量子ビットを束ねて、丈夫な論理量子ビットを作る」という発想でした。これに対し、**そもそも壊れにくい量子ビットを作ってしまえば、束ねる数を減らせるのでは?という逆転の発想で注目を集めているのがキャット量子ビット(cat qubit)**です。AWSが2025年に発表した量子チップ「Ocelot」の採用で一躍有名になったこの技術を、2026年9月時点の業界動向とあわせて整理します。
この記事で分かること
- キャット量子ビットは、量子ビットの2つの状態を「発振器(共振器)の中の光の波」として表現することで、ビット反転エラーを原理的に起きにくくする量子ビットであること
- AWSの量子チップ「Ocelot」は、この性質を利用して誤り訂正に必要な物理量子ビット数を従来より最大90%削減できるとしていること
- Alice&Bob(フランス)やNord Quantique(カナダ)など、キャット量子ビット・ボソニック符号を主軸に据えるスタートアップが2026年に相次いで成果を発表していること
対象読者:誤り訂正の基礎(論理量子ビット・物理量子ビット)を知っているエンジニア・学生の方
執筆:ゆるふわ量子編集部 最終更新日:2026年9月15日
キャット量子ビットとは何か
キャット量子ビット(cat qubit)
超伝導回路の中の「発振器(共振器)」に閉じ込めた光(マイクロ波光子)の状態を使って量子ビットを表現する方式。0と1を、光子数が偶数個の波と奇数個の波という2つの"コヒーレント状態"に対応させる。シュレーディンガーの猫(生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせ)にちなんで名付けられた。
普通の超伝導量子ビット(トランズモン)は、原子のように離散的な2つのエネルギー準位を0と1に使います。これに対しキャット量子ビットは、発振器の中の光の波の"形"そのものを0と1に対応させるという、発想の異なる設計です。この違いが、後述する「ビット反転に強い」という特徴を生み出します。
なぜビット反転が起きにくいのか
ノイズに「偏り」を作る戦略
キャット量子ビットは、2光子損失という特殊な物理過程を使って、量子状態を2つの安定したコヒーレント状態に絶えず引き戻す(安定化する)よう設計されています。この仕組みにより、0と1が入れ替わる「ビット反転エラー」は、発振器に詰め込む光子の数を増やすほど指数関数的に抑え込めます。一方で、位相がずれる「位相反転エラー」はそこまで減らせず、光子数に対して緩やかにしか改善しません。
これは「エラーを完全になくす」のではなく、「エラーの種類を偏らせる」戦略です。ビット反転をほぼ起きないようにできれば、残る位相反転エラーだけを訂正すればよくなります。位相反転だけを守る符号は、表面符号のような2次元構造がいらないシンプルな「反復符号(1次元的に量子ビットを並べるだけの符号)」で済むため、誤り訂正に必要な物理量子ビット数を大きく減らせるというのが、キャット量子ビットの狙いです1。
AWS Ocelot:物理量子ビット9個で表面符号相当の性能
この発想を実機で示したのが、AWSが2025年2月に発表した量子チップOcelotです2。Ocelotはキャット量子ビットで作った論理量子ビットに対し、位相反転エラーだけを訂正する反復符号を組み合わせるアーキテクチャを採用しました。
9個
Ocelotが距離5相当の論理量子ビットに使った物理量子ビット数の一例
最大90%
AWSが主張する、従来方式と比べた誤り訂正オーバーヘッドの削減幅
2025年2月
AWSがOcelotをNature論文とあわせて発表した時期
AWSは、この方式を使えば量子チップのコストを現行方式の5分の1程度まで下げられる可能性があり、実用的な誤り耐性量子コンピュータの実現時期を最大5年前倒しできる可能性があるとしています2。ただしOcelotはあくまでプロトタイプで、2026年9月時点でも一般提供には至っていません。AWSは今後、論理誤り率をさらに桁違いに下げることを次の目標に掲げています3。
表面符号・qLDPC(トランズモン方式)
- ビット反転・位相反転を同じ確率で起こりうる前提で設計
- 2次元格子上に量子ビットを並べる必要がある
- 実装のノウハウが豊富で実機での実証が進んでいる
- 論理量子ビット1個に数百〜数千物理量子ビットが必要になりがち
キャット量子ビット(ボソニック符号)
- ビット反転を物理的に抑え込み、位相反転だけに絞って訂正
- 1次元的な反復符号で済み、必要量子ビット数を削減できる
- 発振器の精密な制御など新しいハードウェア技術が必要
- スタートアップ主導で実証が進む、比較的新しいアプローチ
業界の動き:Alice&Bob、Nord Quantiqueも存在感
キャット量子ビット/ボソニック符号はAWS独自の技術ではなく、専業スタートアップが早くから研究開発を進めてきた分野でもあります。
- Alice&Bob(フランス) — キャット量子ビット専業のスタートアップ。2026年6月、オンプレミス設置向けの量子システム「Helium」を発表し、わずか18個のキャット量子ビットで1個の論理量子ビットを符号化できるとしました。次世代の48キャット量子ビットチップにも対応する拡張可能な設計で、研究パートナー向けに提供が始まっています4。同社は2030年までに100論理量子ビットを目指すロードマップを公開しています5。
- Nord Quantique(カナダ) — キャット量子ビットと関連の深い「GKP符号(格子状態符号)」を使うボソニック方式のスタートアップ。2026年7月、状態準備・測定(SPAM)誤り率を0.1%未満に抑えることに成功したと発表しました。これは従来のGKP系システム比で約100倍の改善で、主要なトランズモン方式に匹敵する水準だといいます6。同社は1個の物理量子ビット(発振器モード)だけで1個の論理量子ビットを実現する「1:1」のアーキテクチャを掲げています。
Alice&Bobのロードマップ(概略)
単一キャット量子ビットチップ
ビット反転抑制を実機で実証(〜2025年)
Helium(2026年)
18キャット量子ビットで論理量子ビット1個を符号化する量子システム
48量子ビットチップ
複数の論理量子ビットを載せる次世代チップ
Graphene(2030年目標)
約100論理量子ビットを載せる、ロードマップ最終世代
課題と注意点
「銀の弾丸」ではない
キャット量子ビットは位相反転エラーの訂正までなくせるわけではなく、発振器を安定させる高精度な制御回路や、光子損失そのものを抑えるハードウェア技術が新たに必要です。2026年9月時点でもAWS・Alice&Bob・Nord Quantiqueいずれも、汎用的な大規模計算にはまだ届いていない要素実証・小規模システムの段階です。表面符号やqLDPCと同じく、「有望だが確定した未来ではない」ロードマップとして見るのが実態に近いでしょう。
まとめ
- キャット量子ビットは、発振器内の光の波の状態で0と1を表す量子ビットで、ビット反転エラーを物理的に抑え込めるのが最大の特徴
- 残る位相反転エラーだけをシンプルな反復符号で訂正すればよいため、表面符号やqLDPCより少ない物理量子ビット数で論理量子ビットを作れる可能性がある
- AWS Ocelotは物理量子ビット9個で表面符号相当の論理量子ビットを実証し、誤り訂正コストを最大90%削減できるとした
- Alice&Bob(Helium、18量子ビットで論理量子ビット1個)やNord Quantique(GKP符号でSPAM誤り率0.1%未満)など、専業スタートアップの動きも2026年に活発化している
もう少し詳しく(背景)
キャット量子ビットという名前は、生きている状態と死んでいる状態が重ね合わさった「シュレーディンガーの猫」の思考実験に由来します。ここでの"猫"は、発振器の中の光子数が偶数個のコヒーレント状態と奇数個のコヒーレント状態という、2つの区別できる"波の形"のことです。これらは2光子損失という特殊な散逸過程によって絶えず安定化されており、外部ノイズでビットが反転しようとしても、系が自動的に元の状態へ引き戻されます1。
この「ビット反転に強く、位相反転には弱い」という偏った性質は、一見すると中途半端に思えるかもしれません。しかし表面符号やqLDPCのような従来の誤り訂正は、ビット反転と位相反転を"同じ確率で起きるもの"として設計されているため、両方に同時に対処するコストがかさみます。キャット量子ビットは、片方(ビット反転)をハードウェアレベルでほぼ解決してしまうことで、残るソフトウェア的な誤り訂正(位相反転の訂正)を大幅に軽くできる、という設計思想です。AWSのOcelotはこの思想を実機で示した最初の大きな一歩であり、Alice&BobやNord Quantiqueのようなボソニック符号専業スタートアップの存在は、この方向性が一部の大企業だけの賭けではないことを示しています46。
とはいえ、表面符号やqLDPCが積み重ねてきた実装ノウハウや実機実績と比べると、キャット量子ビット陣営はまだ歴史が浅く、量子ビット数の規模でも小さい段階にあります。今後数年、複数の論理量子ビットを載せたシステムでどこまで性能を伸ばせるかが、この技術の真価を測る焦点になりそうです。
次に読むなら
誤り訂正の基礎は量子の誤り訂正入門、少ない量子ビット数を狙うもう1つのアプローチは量子LDPC符号(qLDPC)とは?、いま主流の符号の実装は表面符号をQiskitで実装、ハードウェア方式全体の比較は量子コンピュータの方式まとめ、企業動向は量子コンピュータ企業マップ2026へどうぞ。
参考資料・出典
- Amazon's new Ocelot chip brings us closer to building a practical quantum computer | About AmazonAWS公式発表。Ocelotのキャット量子ビットアーキテクチャ、9物理量子ビットでの論理量子ビット実証、誤り訂正オーバーヘッド最大90%削減の主張(2025年2月)
- AWS Announces Ocelot Chip for Ultra-Reliable Qubits | PostQuantum.comOcelotのボソニック符号・cat qubitアーキテクチャの技術的な解説記事
- Alice & Bob Unveils First Quantum System, Helium | Alice & Bob NewsroomAlice&Bob公式発表。Heliumシステムと18キャット量子ビットでの論理量子ビット符号化、48量子ビット次世代チップへの言及(2026年6月)
- Alice & Bob RoadmapAlice&Bobの2030年ロードマップ(公式サイト)
- Nord Quantique Advances Quantum Error Correction with Sub-0.1% SPAM Errors | The Quantum InsiderNord QuantiqueのGKP符号によるSPAM誤り率0.1%未満の実証に関する報道(2026年7月)
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執筆:ゆるふわ量子編集部 最終更新日:2026年9月15日
Footnotes
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この性質は「バイアスノイズ(biased noise)」と呼ばれる。ビット反転エラー率が光子数に対して指数関数的に減少する一方、位相反転エラー率は線形にしか改善しないため、位相反転だけに特化した軽量な符号(反復符号など)を組み合わせる設計が可能になる。 ↩ ↩2
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AWSは2025年2月27日、キャット量子ビットと発振器技術を核とする量子チップ「Ocelot」を発表。Nature誌の査読論文とあわせて、距離5相当の論理量子ビットを9個の物理量子ビットで実現し、誤り訂正のオーバーヘッド(必要リソース)を従来方式比で最大90%削減できるとした。 ↩ ↩2
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AWSは今後の目標として、論理誤り率をさらに複数桁下げることを掲げている。Ocelotは2026年9月時点でも研究用プロトタイプの段階で、一般提供はされていない。 ↩
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Alice&Bobは2026年6月、オンプレミス設置向けの量子システム「Helium」を発表。18個のキャット量子ビットで論理量子ビット1個を符号化できるとし、次世代の48キャット量子ビットチップにも対応する拡張可能な設計として研究パートナー向けに提供を開始した。 ↩ ↩2
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Alice&Bobは2030年までに約100論理量子ビットの実現を目指すロードマップを公開している。ターゲットは当面、汎用計算よりも材料科学など特定用途での実用化に置かれている。 ↩
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Nord Quantiqueは2026年7月、GKP符号(格子状態符号)を用いたボソニック量子ビットで、状態準備・測定(SPAM)誤り率を0.1%未満に抑えたとする研究成果を発表。従来のGKP系システム比で約100倍の改善で、主要なトランズモン方式に匹敵する水準だとしている。 🌸 ↩ ↩2